「狂った果実」から「マルサの女」まで、長年にわたって映画やドラマで幅広い役を演じた俳優の津川雅彦(つがわ・まさひこ、本名加藤雅彦〈かとう・まさひこ〉)さんが4日、心不全で死去した。78歳だった。葬儀は近親者で行った。
1940年、京都市に生まれる。父親は歌舞伎から映画に転じた俳優の沢村国太郎、祖父は“日本映画の父”と呼ばれた製作者のマキノ省三、叔父は加東大介という芸能一家に育った。幼い頃から子役として活動。56年、日活の「狂った果実」で石原裕次郎の純真な弟を演じて注目を集めた。
58年、松竹に移り、木下恵介監督の「惜春鳥」などで甘い二枚目を演じた。60年前後に若手監督が中心になって松竹ヌーベルバーグ運動を起こす。大島渚監督の「太陽の墓場」や「日本の夜と霧」、吉田喜重監督の「ろくでなし」など、彼らの斬新な作品で、強烈な個性の若者を演じた。
中年に差し掛かった80年代以降は重厚な容姿を生かし、伊丹十三監督の映画の常連となる。とりわけ87年の「マルサの女」では国税査察官の宮本信子の上司、「あげまん」では宮本と結婚する銀行員など、印象的な役を数多く演じた。
この頃、渡辺淳一原作の「ひとひらの雪」「別れぬ理由」など大人の恋愛映画で中年男の色気をにじませた。「マルサの女」「別れぬ理由」でキネマ旬報助演男優賞を受けた。
テレビでもNHK大河ドラマ「葵 徳川三代」で徳川家康役や、TBS「野々村病院物語」で外科医役などを演じた。
2006年、叔父のマキノ雅広監督の名前を借りたマキノ雅彦名義で映画「寝ずの番」を初監督。「次郎長三国志」「旭山動物園物語」と計3本のメガホンを取った。兄で俳優の故長門裕之さんとは長年不仲だったというが、これら弟の監督作に兄が出演、晩年は関係を修復した。
妻で俳優の朝丘雪路さんも今年4月に亡くなったばかりだった。長女は俳優の真由子さん。74年に赤ん坊だった真由子さんが誘拐され、無事保護される事件があった。[2018.08.08]
via https://www.asahi.com/articles/ASL7V6TZWL7VULZU010.html
・津川雅彦さん、芸能一家、娘誘拐、借金、妻の介護…波乱万丈の人生
4日に心不全で死去した俳優、津川雅彦さん(享年78)は、祖父が「日本映画の父」と呼ばれた牧野省三監督、叔父はマキノ雅弘監督、兄は俳優の長門裕之さん(2011年死去、享年77)という芸能一家に育った。
1956年公開の映画「狂った果実」で本格デビュー。幅広い演技力の二枚目として人気を博し87年の「マルサの女」など伊丹十三監督作品の常連として活躍した。
私生活では73年に朝丘雪路さん(4月27日死去、享年82)と結婚するも、翌74年に生後5カ月の長女で女優、真由子(44)の誘拐事件が発生。2008年には津川さんが経営していた玩具事業で6億5000万円の負債を抱え、朝丘さん名義の自宅を売却するなどして乗り切った。
兄の長門さんとは“確執”を噂されたことも。津川さんは1981年公開の「マノン」で第24回ブルーリボン賞助演男優賞を受賞したが、長門さんから「オレは26歳でブルーリボンの主演男優賞を取った」と言われたことなどが原因だが、のちに和解したと明かしている。
45年連れ添った朝丘さんについては、自身の浮気騒動が浮上するたびに「もっと遊びなさい」と笑い飛ばしてくれたことを感謝。晩年はアルツハイマー型認知症を患った妻を3年4カ月にわたり献身的に介護。朝丘さんの死去を受け、5月20日に開いた会見では「悔いはいっぱいあるけど、娘を産んだこと、僕より先に死んでくれたことに感謝しています」と深い愛情を見せた。
via https://www.sanspo.com/geino/news/20180808/geo18080805050011-n1.html
・昭和の名優・津川雅彦さん死去‥突然の訃報に多くの悲しみ広がる
https://matome.naver.jp/odai/2153365374109096801
・津川雅彦:Wikipedia
◆朝丘雪路さんに続いて…。津川雅彦さんの人生観を大きく変えた事件
それは突然の訃報だった。女優で日本舞踊家の朝丘雪路さんに続いて、俳優の津川雅彦さん(享年78歳)が4日に心不全のため亡くなっていたことが分かった。朝丘さんの死去から僅か3ヶ月あまりの訃報となった。
朝丘さんは高名な日本画家・伊東深水氏の娘だったが、津川さんは祖父が「日本映画の父」と称された牧野省三監督で、叔父はマキノ雅弘監督。そして兄は2011年に亡くなった俳優の長門裕之さん、義姉は、2009年に亡くなった女優の南田洋子さん――まさにサラブレット級の芸能一家に生まれ育った。
その津川さんと朝丘さんは、今年、結婚45年目の年だった。
朝丘さんはアルツハイマー型認知症だったそうで、2014年4月のミュージカルを最後に自宅で療養していた。津川さんは、そんな朝丘さんを献身的に看病してきた。それだけに朝丘さんの死去には「彼女を残すよりいい結果になった」と悼んだ。「一時は、別居していたこともあった」が、朝丘さんと津川さんは芸能界の中でも”おしどり夫婦”として知られてきた。■おしどり夫婦を襲った 娘・真由子の誘拐事件
夫妻は深い絆で結ばれていた。そのキッカケになったのは、何といっても2人を襲った愛娘・真由子の「誘拐事件」だった。追悼の意を込めて改めて振り返ってみた。
この事件は衝撃的な”昭和の事件”として現在でも語り継がれている。
それは1974年に起こった。結婚して10か月、1974年3月に第一子の真由子が生まれた。
東京・世田谷区の”津川邸”は建面積330平方メートル。そこに夫妻と真由子、他にお手伝いさんや看護婦、運転手など7人が住み込んでいた。
ところが、その他にも毎日さまざまな人が泊まりに来ていたという。
「とにかくオープンな家でしたね。戸締りらしい戸締りはほとんどしていなかったと思います。今では信じられませんが朝丘さんの熱狂的なファンまで泊まりに来ることもあったほどです」(当時を知るベテランの芸能関係者)
しかし、このオープンさが災いを巻き起こす事態が起こった。
同年8月15日午前3時48分、家中が寝静まった中、2階の部屋で寝ていた真由子が侵入してきた男に誘拐されたのだ。因みに、夫妻は別の部屋で寝ていたという。
真由子と一緒にいた看護婦は57歳のベテランだったが、
「時間も時間だったことから、真由子ちゃんが連れ去られる時はウトウトしていた。津川さんが真由子ちゃんを自分の部屋に連れて行ったものと勘違いしてしまったようです」(前出のベテラン芸能関係者)
真由子は生後5か月。ようやく首が据わりかけたころだ。当時の捜査状況を振り返ると、犯人の男は、どうやら夫妻の家が無用心だったことを研究済みだったようだ。勝手口から侵入した犯人は、鍵のかかっていない風呂場のドアから堂々と家の中に入った。階段で2階に上がりドアを開けると、そこに真由子が看護婦と眠っていた。そこで真由子をあやしながら抱き上げ、堂々と玄関から外に出て行った。
誘拐犯は、”津川邸”から真由子を連れ去ると、盗んだ車で自宅に戻った。
「真由子がいなくなった」
看護婦からの連絡に慌てた夫妻は「誘拐された」と判断、すぐさま警視庁に捜索願を出した。前代未聞の出来事に警視庁は新聞社、テレビ局に対して「報道協定」を要請した。これは人質の身の安全を確保するため「報道はもちろん、取材も一切しない」というものだが、実は「誘拐事件」での「報道協定」というのは今では慣例となっているが、このときが初めてのケースだったという。
犯人から電話があったのは、誘拐直後の午前4時ごろ。「500万円を第一勧業銀行(現みずほ銀行)に振り込め」と身代金を要求してきた。
事件が起こる前年の1973年1月、第一勧銀はキャッシュカードを初めて導入したばかりだった。犯人は事件の1か月前に偽名を使って新宿支店で口座を開き、キャッシュカードを使って千住、西新橋、八王子、池袋の4支店で現金を引き出してみる。
「どこでも20秒足らずで金が出てくる。これなら大丈夫だ」
犯人は自信を深めたようだ。
逮捕のキッカケになったのは、津川さんに電話をかけた時に「500万円はすぐに用意出来ない」と言われ「だったら、あすの12時(正午)までに振り込め」と指示したことだった。
第一勧銀は、警視庁の要請に1日でわが国初の「逆探知機プログラム」を開発した。指定された口座に振り込まれた金を犯人がどの銀行のATMで引き出しているかを逆探知した。
16日午後0時17分、犯人は東京駅南口の支店でキャッシュカードを使って現金を引き出しているところを逆探知され逮捕された。誘拐から32時間後、あっけない逮捕劇だった。
ところが、犯人は逮捕されたものの真由子の所在を自供しない…。
「どうせオレは死刑になるから」
そう言ったまま、真由子の居場所も安否も口を閉ざしてしまったというのだ。
しかし、指紋から前科が分かり、自宅を突き止め、真由子は無事保護された。
逮捕から8時間が過ぎていた。
この身代金要求の「誘拐事件」は32時間後に犯人が逮捕され、40時間後に真由子も無事保護されるという劇的な解決となった。 事件翌日の16日午後11時過ぎ、夫妻は赤坂の山王病院で無事、真由子と対面した。
津川さんは無精ヒゲも剃らず、目を真っ赤に腫らし、刑事から真由子を受け取ると、ひしと抱き締めた。その隣で、朝丘さんは涙で濡れた目をぬぐいもせず、津川さんの手を握り締めていた。■「日本一のパパになるんだ」事件後 “子育て“に取り組む
逮捕された犯人は、千葉県内に住む男(当時23)だった。宮崎県出身で両親の離婚、母親の再婚、家の貧しさ、そして中学卒業後は集団就職で大阪に出てくるが、仕事になじめず職を転々とした挙げ句、犯罪に手を染めていく。東京に来る前に、すでに保護観察、検挙歴が5回もあった。夫妻の自宅で事件を起こす前の3月、車を盗み、無免許のまま乗り回していた。
「異常な部分もあるが、知能犯的な部分もあった」(捜査関係者)。
事件について津川さんは後に「新潮45」(2000年8月号)のインタビューでこう振り返っている。
「僕自身、母親のオッパイを触りながら小学6年まで添い寝してもらって、乳離れができず、父母の夫婦生活にも相当支障をきたしただろう反省の念があった。また、役者業の深夜に至る不規則な生活に赤ん坊まで巻き込みたくなかった。ただし、1人で寝かせていたわけではない。病院からの看護婦さんにずっと同室してもらっていた」
津川さんは2006年11月、紫綬褒章を受章した。
「(デビュー前は)嫌だったが、役者になってつくづくよかった」
さわやかな笑顔を見せていたが、その一方で「あの事件が、人生の転機になった。役者だけでなく、父親の視点を持つことができ、世界が何倍にも広がった」と話していた。
事件後、津川さんは「子育て」に真剣に取り組む。
…とはいっても、つきっきりで遊んでやることは不可能だ。その時に「自分に匹敵する良質な玩具で遊びを充実させることを思いついた」という。玩具屋「グランパパ」(偉大な父)の設立だった。
「日本一のパパになるんだ」
バブルの崩壊で実現出来なかったが、スコットランドから城を持ってきた「サンタの国」構想もその延長線上にあったという。
津川さんは13年に北朝鮮拉致問題早期解決のための啓発ポスターにも登場している。以来、安倍晋三総理との交流も深まっていたという。
愛娘・真由子の誘拐事件は、紛れもなく津川さんの人生観を大きく変えた事件だった。その真由子に看取られながら津川さんは78年の人生の幕を静かに閉じた。
via http://blogos.com/article/316560/