■世界有数の才能の宝庫だったモドリッチが生まれた地
技術の巨人と呼ばれるトニー・クーコッチ(クロアチアのスプリト出身でNBAでも活躍したバスケの世界的名手/編注)の恍惚感を得られるあり得ないアシスト。おそらくは、これまでハンドボールコートを踏んできた中で最たる天才だった、イヴァノ・バリッチ(ハンドボールで世界最高の選手と謳われた/編注)の手首のひねりの凶悪さ。
ブランカ・ヴラシッチ(女子走高跳の元世界女王で北京五輪で銀、リオ五輪で銅メダル。クロアチア代表FWニコラ・ヴラシッチは弟/編注)の2メートルのバーを悠々超える高跳び。もしかすると最強のスポーツ食人鬼で、欧州のバスケットコートのゴールを決して傷ませることがなかったドラジェン・ペトロヴィッチ(バスケの伝説的名手/編注)が有する勝者の気質。
ゴラン・イヴァニシェヴィッチ(クロアチア・スプリト出身の男子プロテニス選手としてウィンブルドン初優勝/編注)の天空をかすめるラケットの反発から繰り出されるサーブ。ピッチを踏むときには流れを決定づけたインテリ、ズヴォニミール・ボバン(ACミラン黄金期を支えた元クロアチア代表の名手/編注)の表現力に豊んだ多才性……。
そのすべての技術、身体能力、精神はダルマチアという、1平方メートルにおける才能の取れ高が、おそらく最も多い地域で鍛え上げられた。■ダルマチアが数多くの才能を輩出する背景
今日ではザダール、シベニク=クニン、スプリト=ダルマチア、ドゥブロヴニク=ネレトヴァと行政的に4つの郡に分けられているこの古代ローマの旧地域は、地理的、歴史的な豊かさを享受している。そこはアドリア海の大部分やディナル・アルプス山脈の威容を抱え込むことで美しきコントラストを誇り、その位置的な恩恵によって、何世紀にもわたり多くの文明に飛び地を促したと推定される。
この地域で生まれたチャンピオンたちを一覧で振り返るとすれば、衝撃を受けることになるだろう。そして、ここからクロアチアの北へと向かって100キロ範囲を拡大すれば、同国トップレベルのスポーツマンの大多数を含められるのだ。
1985年9月9日、ラドイカとスティペのモドリッチ夫妻はここダルマチアで、3人の子供の一人であり、唯一の男の子となるルカを授かっている。その時代のクロアチアはまだ、元帥ヨシップ・ブロズ、通称チトーのユーゴスラビア社会主義連邦共和国に属していた。第二次世界大戦後に築かれ、1992年1月15日にスロベニア、そしてクロアチアの独立でもって終焉を迎えた彼の国である。
地理上のダルマチアは、今日そこを訪れる人々にとっては魅力的であり、一方その土地に住む人々の生活環境としては、歴史的に複雑な場所である。山脈と島々と岩々は住民に環境に馴染むための並々ならぬ苦労を強い、そこに民族の混在も結びつくと、時間の経過の中で感嘆すべき遺伝子が育まれた。近年の欧州において、スポーツ分野での才能を数多く輩出する地域となっている。
イリュリア人、ギリシア人、ローマ人、フランク人、ビザンティン人、オスマン・トルコ人、ヴェネチア人、オーストリア人、イタリア人やほかの住民が、彼らの後継ぎたちにクロアチア国内のそのほかの地域、また言わずもがな国外で羨望と願望の的となる遺伝子構造を授け、そしてその遺伝子の進化は単純な自然選択に委ねられた。■世界で最も長身な地域で稀有な男
困難な状況の中で何とか生き延びようと、過去に多くのクロアチア人が移住してきたダルマチア。その場所が20世紀という時代に寄りすがる道具としたのは、スポーツだった。道を歩けば2メートル近い男性や、1メートル80センチを優に超える女性とすれ違うのは当たり前。その輩出先は明確だった。
バスケットボール、ハンドボール、バレーボールが、逆境を撥ね除けるための精神的有機体として栄養を得たのである。不可欠な挑戦を達成するための気骨、野心で味付けされた勝者の複合集団は、道を塞ぐ障害や、ダルマチアの地形を乗り越えていった。そして、もちろんフットボールも。
それは跳躍したり力持ちだったりする巨人たちの体格がハンディキャップにもなるスポーツだが、21世紀初頭のダルマチアの象徴の一人が、固定観念や壁を次々に打ち破っていった。
174センチ、65キロと、世界で最も長身な人々が住む地域においては非常に稀有な男が、この現代フットボールで長距離を駆け抜ける偉大なミッドフィルダーになった。彼こそが、ルカ・モドリッチ。枯れることなく才能が湧き出る、ダルマチアの子の一人だ。
単なる偶然だと非難したり、さらには冗談半分に秘教的な理論を持ち出したりする人々を欠くことはない。しかし、この世界にある苗床など、ほんのわずかだということに疑いの余地はない。少なくとも陸上選手だけでなく、個人や集団の多種多様なスポーツで、世界的スターが芽を出すだけの土壌は希少だ。
確実に観光地化していくアドリアの海岸と、この地域のイリュリア人を長きにわたってローマ人の侵攻から守ったディナル・アルプス山脈が生みだした地理的に絶妙な混じり合い。そこに民族の混在が結びつくと、それは何百年も続くことになる完璧な組み合わせとなった。今のように生きることが容易でないときにも、世界を席巻するための才能、生得を磨いていける組み合わせに。この地球上でわずかにある、もしくはほとんどない素晴らしい、驚くべき現象が、戦争と競技場と、昔からずっと戦いの中にあった土地で生じたのだった。■驚異的な粘り強さを育むダルマチアの精神的な源とは?
前述したドラジェンの兄弟でありバスケットボール界のもう一人の伝説アッツォ・ペトロヴィッチの言葉によれば、ダルマチアの人々は「戦をするためのたくましい人間」であるという。人生が戦へ導くとき、もしくはスポーツに取り組むときに才能が現出し、勝利をつかませるのだと。
遺伝、風土、食事、地理、精神。史上最高の高跳び選手の一人であるブランカ・ヴラシッチは、ダルマチアの人々の精神を成り立たせる要因〝X〞となる、ほかの言語に当てはめることが困難な言葉の存在を明かす。
「ダルマチアではそれをディシュペットと呼んでいるのだけれど、翻訳は簡単じゃない。自分たちが行なっていることから、さらに一歩を踏み出させるポジティブな強情さ、という類の言葉。私の頭の中にはいつもそれがあって、ダルマチア人精神の模範ゴラン・イヴァニシェヴィッチのように戦っているわ」
驚異的な粘り強さを証明するのは、ヴラシッチ自身だ。彼女は高跳びよりも集団スポーツに好都合な環境の中、家族の助力もあって何もないところから五輪で2位にまで輝いたのだから。世界の準優勝者は、集団スポーツが優勢である理由にも言及している。
「ダルマチアの子供たちは、歩き始めたらボールをプレゼントされる。大抵はフットボールのものだけれど、何かしらのボールをね」
こうした要因に、スポーツを簡単に実践させることのできるシステムが結びつくと、時間の経過とともに感嘆すべき多種多様なスポーツ資源が生まれることになった。■「スポーツへの投資が結果をもたらしたんだ」
社会主義のユーゴスラビアでは、若者たちに多くの競技を実践させていた。欧州バスケットボールの歴史において、おそらく史上最高のチームであったユーゴプラスティカ・スプリトの伝説的センター、ジャン・タバックは、あの社会ではどのようなスポーツにも取り組めたことを、まるで昨日のように思い出す。
「小さい頃には水泳、水球、セーリング、バレーボール、バスケットボールを実践した。自分がどこの誰で、どこから来たのかを質問する人は誰もいなかった。そのすべてが政府から助成金を受けていたからね」
彼が14歳の頃、地元のハンドボールチームが解散することになり、そのために従兄弟からユーゴプラスティカでの挑戦に臨むよう説得された。そのユーゴプラスティカには彼を含めて、比類のない才能が集結した。禁欲的かつほぼ軍隊的で、強い精神を持つ者しか生き残れない労働体制の中、皆の記憶に残るグループがつくり上げられていった。
純然たる進化論と銘打ってもいい月日の中で、練習方法も進化を果たした。「イタリアやアメリカでの日々で、技術やフィジカルに関する練習方法の改革を目の当たりにした。しかし自分の国では15年前から行っていたことだった。スポーツへの投資が結果をもたらしたんだ」、タバックが断言する。■古のダルマチアから道を切り開く
とどのつまり、ダルマチアの住民は厳格さと勇敢さを混ぜ合わせた、とても興味深い遺伝子の持ち主であり、その人生では自らを犠牲にして、厳しい姿勢で働くことを厭わない。そのために高レベルのアスリートたちが生まれる果樹園となったわけである。
ダルマチア最大の都市スプリトでは、クーコッチ、ヴラシッチ、バリッチ、ディノ・ラジャが育った。シベニクの通りでは水球の伝説ペリツァ・ブキッチ、ペトロヴィッチ兄弟がチャンピオンとなることを夢に見て、晴れわたったドゥブロヴニクではクロアチア水球の大多数の選手たち、またアンテ・トミッチやマリオ・ヘゾニャらバスケットの価値ある選手たちが成長を遂げた。
そしてザダールについては、特筆に値する。小さなモドリッチがスポーツマンとして歩み始めたその場所は、わずか7万5000人の人口から6人もの五輪メダリストを輩出したのである。
欧州の選手で初めてFIBA殿堂入りを果たし、バスケットボール界のトップに君臨した伝説クレシミール・チョシッチを皮切りとして、ゾラン・プリモラッツ(卓球)や、イヴァン・ニンチェヴィッチ、ヴァルチッチ、ヨシップ&トンチ兄弟(いずれもハンドボール)が、それぞれのキャリアで栄光をつかんだのだった。
この極まった困難とスポーツ文化の温床で、ルカ・モドリッチはその人生を歩み始めた。壮絶な逆境の中で、しかし壁を壊していく覚悟を持って。実際、フットボールの世界的スターとなるための壁は、決して少なくなかった。才能と意思の強さを持ち合わせる新たな模範的存在が、古のダルマチアから道を切り開いていったのである。
via https://www.footballchannel.jp/2018/10/19/post293667/
歴史
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◇The history of tea – Shunan Teng
水に次いで世界で2番目に飲まれている飲料が「お茶」です。トルコでは甘いチャイが飲まれ、対照的にチベットでは塩辛いバター茶、日本では抹茶など、お茶は消費される国によってさまざまな飲み方があるのですが、そんなお茶のルーツに迫るTEDのムービーが公開されています。
中国の神話に登場する神農は、人々に効果のある薬草を見つけ出すため、山の中で目に付く草木を片っ端から食べて歩きました。その中には毒草もあり、神農は1日に72回も食中毒になったと言われています。
そんな中、神農が見つけたお茶の葉を口にしたところ、毒で弱ったからだを復活させる効果が得られたと伝えられています。
実際のところ、お茶の葉に解毒効果はありませんが、古代の中国でお茶が重宝されていたことを書き記しているわけです。
考古学では、世界で初めてお茶の木が栽培されたのは、約6000年前の中国だと言われています。約1500年前のギザの大ピラミッドが建設されるよりはるか前から、人々はお茶をたしなんでいたのかも。そんな中国のお茶の木は世界中で飲まれているお茶の源流になっているとのこと。
しかし、お茶の葉はもともと飲料として飲まれていたわけではなく、ある国では野菜として食べたり、ある国では穀物と混ぜておかゆにしたりと、古くは食物として消費されてきました。
約1500年前になり、ようやく人々はお茶の葉にお湯を入れると飲料として飲めることに気がついたそうです。数百年の時を経て、お茶の飲み方は洗練されていきます。中国で乾燥させたお茶の葉を挽いて粉状にしたものとお湯を混ぜた飲料が誕生し……
その飲料は「末茶(抹茶)」と呼ばれるようになりました。
中国で抹茶は非常に人気の飲料になり、中国のお茶の文化の始まりになったとも言われています。その証拠に、中国の皇帝は本や詩とともにお茶をたしなんでいたこともわかっています。9世紀の唐王朝時代、日本人の僧侶が初めてチャノキを日本に持ち帰ったとのこと。
それが日本の茶道文化の発祥となり、独特なお茶の作法を生み出すことにつながりました。
中国では、14世紀の明王朝時代にお茶が磁器や絹に並ぶ、重大な輸出財の1つに数えられるほどになったとのこと。輸出品としてお茶の人気が高まったことで中国に多大なる経済的影響力があっただけでなく、世界中にお茶が普及するきっかけになったそうです。1600年代になると、オランダの商船がヨーロッパに大量のお茶を運ぶようになりました。
ヨーロッパに運ばれたお茶は、1661年にチャールズ2世と結婚したキャサリン・オブ・ブラガンザ王妃に親しまれ、王妃はイギリスに紅茶の文化を根付かせた功績者とされています。
また、当時のイギリスは植民地の拡大を続ける世界的強国でした。イギリスが世界的な影響力を強めるにつれ、世界中に紅茶の文化が広まっていくきっかけにもなったとのこと。
しかし、1700年までのお茶は中国で栽培されていたため、コーヒー豆の10倍の価格で販売されていたとのこと。
高価なお茶は貿易商品としても重宝され、交易に当時で世界最速の大型帆船「クリッパー船」が使われるなど、西洋の貿易会社間での激しい競争を生み出しました。
当時のイギリスはお茶の代金として銀を支払っていたそうですが……
「お茶の葉の対価として銀は高価すぎる」ということが発覚し、紅茶の支払いには麻薬のアヘンが使われるようになったとのこと。その結果、アヘンは中国で大量の中毒者を生み出し、重大な公衆衛生問題に発展しました。
1839年に、清王朝はアヘンを運ぶイギリス船を破壊するという声明を出しました。これがきっかけで、清とイギリスの間で2年間にわたって続けられた「アヘン戦争」が勃発したわけです。
アヘン戦争に勝利したイギリスは、香港を植民地化しました。
同じころ、イギリスの東インド会社はお茶をイギリスで栽培し、市場をコントロールすることを望みました。
そこでイギリスのプラントハンターであるロバート・フォーチュンは、中国からチャノキを盗み出し、インドのダージリンへ運んだことで知られています。中国を起点に世界中に広まったお茶はさまざまな発展を遂げ、国によってまるで異なる味わいの飲料として世界中で親しまれています。・・・
via http://gigazine.net/news/20170519-history-of-tea/
◇ワールド・ヒストリカル・アトラス:http://x768.com/w/twha.ja
・ある時代・ある地域にあった国名・版図・統治者がひと目で分かる
・縮尺を変えるとその頃世界の他の地域はどうなっていたのかがわかる
・右上の年号に見たい西暦を入力すると刻々と情勢が変化する
◆THE EVOLUTION OF DISNEY ANIMATION (1937-2016)
室町幕府3代将軍、足利義満が晩年を過ごした「北山殿」跡(後の金閣寺=京都市北区)から塔の先端部「相輪(そうりん)」の一部とされる青銅製の破片が出土し8日、京都市考古資料館が発表した。約110㍍の木造の塔とされる「北山大塔」の一部の可能性が高いという。これまで北山大塔の存在は一部の文献に記されているだけで、実際に遺物が見つかったのは今回が初めて。同資料館は「北山大塔の存在を裏付けた価値は高い」としている。
現存する最も高い木造建築物は、東寺の五重塔(55㍍)だが、北山大塔は相国寺七重塔と並んで日本史上最も高い木造建築物とされている。
寺院施設の改築に伴って昨年5月から昨年7月にかけて境内の北東角、約450平方㍍で行われた調査で見つかった。15世紀初頭の溝跡から最大幅37㌢、最大高25㌢など数点の青銅製の破片が出土したという。形から塔の先端の相輪の一部「宝輪」と判明。復元すると直径約2・4㍍になる。成分分析では、表面には金メッキが施されていたことも確認された。
出土した年代や大きさなどから、義満が、禅宗寺院・相国寺に築いた高さ110㍍の七重塔が落雷で焼失した翌年の応永11(1404)年、自分の別荘の北山殿に再び建てようとした同規模の北山大塔の可能性が高いという。
当時の貴族の日記によると北山大塔は同年4月に起工式を行い、応永?年に落雷で焼失したとされるが、一部の専門家は未完成だったと指摘。塔の存在も疑われてきたが、同資料館は「詳細な場所や塔の規模、構造の特定は難しいが、きらびやかで壮大な塔の存在は裏付けられた」と話している。[2016.07.08]
via http://www.sankei.com/west/news/160708/wst1607080056-n1.html
・祭祀王になる! 足利義満の夢のタワー 室町時代の新都心のランドマークか
「金閣寺七重塔は本当にあった」-。国内有数の観光寺院、金閣寺(京都市北区)から、室町幕府3代将軍、足利義満が600年前、寺の前身・北山殿に建てた高さ110メートルの七重塔、北山大塔の破片が出土した。これまで塔に関する記録は少なく、実在の有無さえ疑われる幻の存在だっただけに、専門家からは驚きの声があがった。
■比類なき財力で建設
幻の塔が実在したことを示す遺物の発見に「興奮した」と話すのは早島大祐・京都女子大准教授(日本中世史)だ。
これまで歴史上最も高い木造建築物とされていたのは、高さ約110メートルの相国寺七重塔。北山大塔は相国寺七重塔が落雷で焼失した翌年の応永11(1404)年から建設を始まったと記録があり、早島准教授は「その財力は相当なもの。日明貿易の成功が大きかった」と指摘する。
義満は南北朝の戦いで疲弊した朝廷の合一に尽力。その権力は上皇、天皇を突き抜け、過去に例のない位置までのぼりつめた状況だったという。■新都心のシンボル
調査では、塔が立っていた場所などは分からなかったが、出土を発表した京都市考古資料館の前田義明館長は「塔は、そんなに遠くない場所にあったことは間違いない」と話す。
出土状況から「頑丈な青銅製だが、破片が飛び散るぐらいにたたきつけられたような感じ。落雷で塔が倒壊した際に相当なショックを受けたのだろう」と話す。
足利幕府と寺院の関係について研究を行っている池坊総務所池坊中央研究所の細川武稔さんは、義満は北山殿周辺に新都心を建設しようとしていたと指摘。街の中心を通る南北道の先に塔があったと想定し「真っすぐに延びた道の先に建つ姿は壮麗だったに違いない」と思いをはせた。■祭祀王としてアピール
足利義満はなぜ、これほどまでにタワー建設にこだわったのだろうか。早島准教授は「父、義詮(よしあきら)の菩提(ぼだい)を弔うのが第一としつつ、金色に輝く金閣と合わせてシンボルにしたかったのでは」と話す。
また、義満は北山殿で政務を行うと同時に朝廷顔負けの宗教儀式を重ねていたという記録も残る。
今谷明・帝京大教授(日本中世史)は「国内外に朝廷以上の国王として、また祭祀王としての自分を強烈にアピールしたかったのだろう」と話していた。
via http://www.sankei.com/west/news/160708/wst1607080063-n1.html
「あの事件」さえなければ、淡路島は兵庫県ではなく、徳島県だったかもしれない。「あの事件」とは、明治初期の洲本城下町で起きた「庚午(こうご)事変(稲田騒動)」。江戸時代は徳島(阿波)藩領だった淡路島が兵庫県に編入される発端となった史実をもっと知ってもらおうと、関係者の子孫らが、先人の足跡を紹介する取り組みを続けている。
庚午事変とは、1870(明治3)年、徳島藩の一部藩士らが、同藩筆頭家老として淡路を任されていた稲田家と対立する形となり、稲田家臣の家などを襲った事件。徳島藩側が処罰を受け、淡路島が兵庫県に編入される契機となった。
2013年、稲田家の子孫らが事変で焼失した学問所益習館(えきしゅうかん)にちなみ、市民グループ「益習の集い」を設立。一般の参加者と洲本市内に残る石碑や墓を巡る歴史ウオークなどの活動を続ける。
ゆかりの地の一つ、江国寺(こうこくじ)には犠牲者を弔う招魂碑があり、側面に「三宅達太郎」の名が刻まれる。稲田家の武道師範を務めていた達太郎は事変で自決。グループ会長で、達太郎のやしゃごにあたる三宅玉峰(ぎょくほう)さん(63)=同市=は「当主のために家臣は無抵抗を貫いたが、武道の達人だった高祖父は何もせず敵の手にかかるのが屈辱だったのでは」と話す。
グループが14年から続ける追悼式では稲田家だけでなく、徳島本藩側の死者も合わせて慰霊することにこだわった。「両者とも時代に翻弄(ほんろう)された。恩讐(おんしゅう)を超えて、和解する機会としたかった」と三宅さん。交流は重なり、徳島市のNPO法人と徳島藩主が愛したという「蜂須賀桜」を洲本市内の神社に植樹。徳島県美馬市では、事変後に北海道の開拓に尽力した稲田家臣らの功績を伝えるパネル展が催された。
事変は、船山馨の小説「お登勢」が原作のNHK時代劇や、北海道で苦闘する家臣らを描いた映画「北の零年」で取り上げられてきたが、地元淡路島でも事変や稲田家を知らない人は少なくない。
益習館は江戸後期に頼山陽(らいさんよう)ら高名な学者を招くなどして多くの人を育てた。三宅さんは「その精神を継ぎ、地元に誇りを持てる人材の育成に少しでも貢献したい」と話している。【庚午事変(稲田騒動)】1870(明治3)年5月、徳島藩の筆頭家老で洲本城代を務めた稲田家の家臣宅を、徳島藩士が襲撃。稲田家側の17人が死亡(自決2人を含む)、約20人が重軽傷を負った。前年の「禄制(ろくせい)改革」で、陪臣(家臣の家臣)である稲田家臣は士族に加えられず、士族編入を嘆願し、分藩独立運動へ。これを藩主・蜂須賀家への不忠とみた徳島本藩の家臣が暴発した。明治新政府は首謀者らを切腹や流罪などとし、稲田家側には北海道への移住を命令。翌71年には淡路島北部が、最終的に全島が兵庫県に編入されたのは、事変のしこりを後世に残さないためとされる。
via http://www.kobe-np.co.jp/news/shakai/201606/0009176167.shtml
・庚午事変 : Wikipedia
■徳川の大軍を真田が打ち破った「第一次上田合戦」
もともと武田勝頼に臣従していた真田家は、武田家が織田信長に滅ぼされた後、生き延びるために北条、徳川、上杉…と次々と主を変える。
裏切られて業を煮やした徳川家康は、天正13年(1585年)、自らが真田昌幸に築かせた上田城に約7000と言われる大軍で攻め寄せる。
上田城は、長野県北部に位置する交通の要衝。攻める大将の鳥居元忠は、後に関ヶ原の前哨戦、伏見城の戦いで壮絶な討ち死にを遂げた猛将だ。
守る真田家は、草刈正雄演じる昌幸が知勇を兼ね備えた謀将とはいえ、兵力はわずか2000。同盟する上杉家も国力が疲弊しており、たいした援軍は期待できない。まさに絶体絶命の戦いと言える。■「ひきつけて討つ」真田流の真骨頂
押し寄せる徳川の大軍に対して、父・昌幸は上田城に、大泉洋が演じる長男・信幸は近くの砥石城に籠城。上田城に攻めかかる徳川軍に対して、真田の前衛は早々に城内へ撤退。
勢いをかった徳川方は、城の二の丸まで攻めこむが、じつはこれ、昌幸が仕掛けた罠。大軍が活かせない城内に引きずり込まれた徳川軍は集中攻撃を受けた上に、城下町を火攻めにする作戦で退路を断たれ、混乱状態に。
そこへ城内からは昌幸の手勢が、砥石城からは信幸勢が追撃し、徳川軍は壊滅。近くの神川で溺れ死んだ者を含めると1300名もの死者を出したという。一方の真田方の死者は約40名という圧勝劇だ。■この遺恨が二度の戦いにつながる
当時、羽柴秀吉とも対峙する大大名だった徳川家を破った真田家は、地方豪族から「信濃の大名」として地位を固めてゆく。
慶長5年(1600年)、関ヶ原へ向かう徳川秀忠軍を足止めした第二次上田合戦でも、徳川軍はふたたび「ひきつけて討つ」 真田の戦法で煮え湯を飲まされることに。
そしてドラマのタイトルともなった「真田丸」は、大阪冬の陣で大軍をひきつけて集中攻撃するため、大阪城の南側に信繁がつくらせた出城だ。徳川軍は、最後まで真田の戦い方に手を焼き続けたと言えるだろう。・・・
via http://sirabee.com/2016/04/03/105116/
・よくわかる第一次上田合戦:攻城団ブログ
http://kojodan.jp/blog/story/2615.html
・第一次上田合戦_上田城の戦いに見る真田昌幸の戦略!!:セレクト日本史
http://pleasure-bit.com/1163.html
・上田合戦:Wikipedia
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ヤフーは、「History of the Internet ~インターネットの歴史~」を公開しています。
「History of the Internet ~インターネットの歴史~」は、約20年に渡るインターネットの歴史を絵巻物のように表現したというコンテンツです。なお、Yahoo! JAPANのサービス開始20周年記念として制作されています。
このコンテンツでは、Yahoo! JAPANの歴史をはじめ、国内外のインターネットサービスの歴史をイラストで紹介。世界・日本の歴史、ポータルサイトや検索エンジン、そしてメディアなどさまざまな出来事が詳しく、かつ面白く表現されています。
via http://www.inside-games.jp/article/2016/04/01/97476.html
・Yahoo! JAPAN “History of Internert” : http://docs.yahoo.co.jp/20years/