■ミランの背番号10番を背負う本田圭佑

本田圭佑は2014年1月にミランに加入。背番号10番を選択した。
ミランのアドリアーノ・ガッリアーニCEOによれば、本田は当初は日本代表での「4番」もしくはCSKAモスクワでの「7番」を希望していたとのこと。しかし、両番号は既にサリー・ムンタリ(4番)とロビーニョ(7番)がつけていたため断念した。
そこで、ガッリアーニCEOがケビン=プリンス・ボアテングがシャルケに移籍し空席となった「10番」を提案すると、喜んで受け入れたとされている。
後に本田は「目の前に10番をつけるチャンスがあったら、違う番号を選びますか?という話ですよ」と語った。「選ぶ時にプレッシャーのことは考えなかった」とし、「後悔することはない」と決断している。
■ミランの歴代「10番」1960年代~1990年代前半
背番号が現在の固定制ではなくポジション準拠となっていた時代に、ミランの10番として象徴的に語られるのがジャンニ・リベラとルート・フリットだ。
リベラは1960年から1979年にミランで活躍したイタリア人MF。チームをセリエAで3度、コッパ・イタリアで4度、チャンピオンズ・カップ(現チャンピオンズリーグ)で2度の優勝に導いた偉大なカピターノ(キャプテン)である。

セリエAデビューは15歳281日で、同リーグの歴代最年少記録2位を保持している。2004年にペレが選んだ「偉大なサッカー選手100人」に選出され、国際サッカー歴史統計連盟(IFFH)による「20世紀世界最優秀選手」の19位に選ばれた。
ルート・フリットはミランを世界的に有名たらしめた「オランダ・トリオ」の一員として活躍したレジェンドだ。1987年から1993年、1994年にミランに在籍し、アリゴ・サッキ監督とファビオ・カペッロ監督のもと「グランデ・ミラン」を形成した。

セリエAで3度、コッパ・イタリアで1度、チャンピオンズ・カップで2度の優勝を経験。IFFHによる「20世紀世界最優秀選手」の18位に輝いている。
リベラ、フリットはともにバロンドールを獲得している“伝説”だ。
■ミランの歴代「10番」1990年代後半~2000年代前半
フリットから背番号10番を継承したのがデヤン・サビチェビッチだ。1992年から1998年までミランに所属し、1995/1996シーズンから固定背番号制が開始されたことで、「10番」の象徴となった。

ファンタジー溢れるプレースタイルは「トップ下」のイメージそのもので、ミランでは3度のセリエA優勝に貢献した。
1998年から背番号10番を背負ったのはズボニミール・ボバン。サビチェビッチと同じくユーゴスラビア圏の系譜を継ぐ選手で、ユーゴスラビア代表で8試合、クロアチア代表で51試合に出場した。1998年フランス・ワールドカップではクロアチア代表を3位に導いている。ミランでは4度のセリエA優勝と1度のチャンピオンズリーグ優勝に貢献した。

ユーゴスラビア紛争の際には「私は政治家100人にできないことができる」と発言するなど、雄弁さが特徴的な人物でもある。「サッカーを戦争だと言う者は、本当の戦争を知らない」という名言はあまりにも有名だ。その能力を活かし、現在はイタリアで辛口サッカー解説者として愛されている。

2000年代に入り、ミランの背番号10番はマヌエル・ルイ・コスタに継承された。同選手はミランだけではなくポルトガルの伝説として知られている。ポルトガルのベンフィカで活躍した後、セリエAのフィオレンティーナに移籍。同クラブでガブリエル・バティストゥータとともに黄金時代を築き、2001年にミランに加入した。
ポルトガル代表ではEURO1996でベスト8、EURO2000では母国をベスト4に導いている。ルイ・コスタもまた、ペレが選んだ「偉大なサッカー選手100人」に選出された。
■ミランの歴代「10番」2006年以降

ルイ・コスタから背番号10番を譲り受けたのは、オランダが誇る“最高傑作”と評されたクラレンス・セードルフだ。アヤックスのアカデミー出身で、わずか16歳242日でプロデビューを果たした。
その後、アヤックス、レアル・マドリー、ミランでチャンピオンズリーグ(CL)優勝を達成。サッカー史上唯一の「異なる3クラブでCLに優勝した選手」である。また、CL決勝における勝利記録も保持しており、バルセロナのアンドレス・イニエスタとともに史上2人しかいない「CL決勝で4度勝利した選手」である。
セードルフはミランで2度のセリエA優勝、2度のチャンピオンズリーグ優勝、1度のコッパ・イタリア優勝に貢献した。
またセードルフは、ルイ・コスタがミランからの退団を決意した際、クラブは当初ブラジル代表MFカカに背番号10番を与えようとしていたが、セードルフの強い希望によって10番を勝ち獲ったというエピソードを持っている。
そのセードルフから背番号10番を継承したのがケビン=プリンス・ボアテングであり、本田の前代にあたる10番だ。ミランの10番を背負った選手において、初めてかつ唯一のアフリカ圏の代表選手である。

ミランでは2010/2011シーズンのセリエA優勝に貢献した。歴代10番に比べれば成績は物足りないものとなっているが、2012年のバルセロナ戦でのスーパーゴールは今もなおミラニスタの心に残っている。
■ミランの10番は「外国人選手」のもの
ミランの背番号10番は「イタリア人のためのもの」ではない。ジャンニ・リベラを除いて背番号10番を背負ったのは全て外国人選手であり、西ヨーロッパ、東ヨーロッパ、アフリカ、アジアと様々な地域の選手が担っていることが分かる。
また、ミランにおいて意外にも南米の選手が背番号10番の象徴となったことはない。とりわけ多くのブラジル人選手が活躍してきたクラブではあるが、カカが10番を受け取らなかったことで同番号は「その他の国の選手」のものとなったようだ。
一方で、ミランにおいて背番号10番以上に重要な番号が2つ存在する。背番号3番と背番号6番だ。
この2つの番号は偉大な2人のカピターノが背負った番号であり、永久欠番となっている。6番を背負ったフランコ・バレージと、3番を背負ったパオロ・マルディーニである。
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両選手はともにDFとしてプレーし、ともにキャリアの全てをミランに捧げた。ミランは伝統的に「イタリア人が後ろを固め、外国人選手が攻撃を担う」といったメンバー構成で戦ってきた。母国のファンにとって、10番は「助っ人」へのリスペクトの象徴として機能しているのかもしれない。
■本田は歴代唯一タイトルをもたらしていない10番
本田はミランにおける歴代の背番号10番の中で、唯一クラブにタイトルをもたらしていない選手となってしまっている。
とりわけシルビオ・ベルルスコーニ現名誉会長がクラブのオーナーに就任して以降、ミランの歴史は栄冠の歴史である。前任者のケビン=プリンス・ボアテングも、背番号10番時代にはタイトルを獲得できなかったものの、ミランの最後のセリエA優勝である2010/2011シーズンのスクデット(リーグ優勝)の立役者である。
今のミランにかつての「グランデ・ミラン」の面影はない。しかしながら、ミラニスタがタイトルへの渇望を捨てることはないだろう。本田はミランにタイトルをもたらせるのか。ミランの背番号10番とは、そのような存在なのだ。
via http://www.footballchannel.jp/2016/01/16/post132675/